価値観

7. マイノリティは排除されるべきか

最大多数の最大幸福という言葉は聞いたことがあるのではないか。

まあ無いという人にも分かるように書いていくつもりだけど。
おそらく高等学校の倫理の範囲なので知らない人もそれなりにいるかもしれない。或いは大学の哲学か。

端的に言ってしまえば、「多くの人に大きな幸福を与える行動が善だ」という思考。
イギリスの哲学者、ベンサムが提唱した功利主義だ。

「そりゃそうだ」という声が聞こえてきそうなくらい普通なことを言っているようだが、この価値観には大きな前提がある。
「ある一つの行動によって全員が幸福になることはできない」という前提。
どんな時も全員が幸せになる選択肢があるのならそれはとても良いことだし常にそれを選べばいい。しかし現実はそうはいかない。だからせめてその行動によって生まれる幸福が最も大きい行動をとろうぜ、という話だ。とてもシンプル。

だけど、もう一歩踏み込んでみると少し雲行きが怪しくなる。
「100万人が幸せになるために100人の人はちょっときついけど我慢してね」という状況をこれは孕んでいるわけ。

ここからが本題。
そうなると、「マイノリティは淘汰されるべきか」という話になる。
以前にも取り上げた気がして申し訳ないのだけど、同性愛なんてまさに典型だろう。正直なところを言えば私は同性愛問題には全然興味がないのだけど、これだけ取りあげる頻度が高いと興味津々に見えるだろうな。ちなみに、全然興味がないということは、同性愛者の結婚制度だとか、そういうのはどんどん認められていくべきだと思っている。その辺りは最後に書く。
世の中は不思議なもので、「同性愛者が同性愛者同士で結婚(擬き)をすると、『同性愛者ではないしその人たちと知り合いでもないし今後も関わることは無いつもりだけど困る』という人」がいる。すごく不思議。
その不思議さは置いておいて、まあほとんどの人はその制度によって恩恵を受けることも無いし、そうなると単純に「その制度を認めてほしい同性愛者」と「認めたくない人」に分かれることになる。
人数の比較なんてできる気がしてないけど、仮に「認めたくない人」の方が多かったらそれは認められないべきなのか、という話。
これは別にこの問題に限らず様々な部分で語ることができる問題だと思っているのだけどいかがか。

最大幸福という言い方はいわば幸福量の絶対値の比較も含んでいるのだけど、「どれくらい幸せか」なんて無関係の私にはよくわからないので仮に「認めてほしい人が認められた時の幸福」と「嫌がっている人がその制度が成立しなかったときの幸福」は同一だとしよう。

この問題をすごくシンプルに整理するとこうなる。
「マイノリティな人々を許容する内容の制度Aに対し、『賛成派』が10人、『どうでも良い派』が75人、『反対派』が15人だとする。制度が成立すると、賛成派は一人一人、『10の幸福』を得る。不成立だと反対派はそれぞれ『10の幸福』を得る。この時、この制度は成立するべきか否か」

という問題。(相当シンプルにしたので、成立した時の反対派の不幸や不成立時の賛成派の不幸は勘定に入れていない。幸福と同じように計算されると思ってほしい)

さあどうする?
最大多数の最大幸福を考えるなら、どうなるべきだろう。
制度Aの成立時の幸福量は100。不成立時の幸福量は150だ。じゃあ明白。不成立にすべきだ……本当に?
何か釈然としない人が多いのではないか。
これはそんなに簡単で単純な問題か?

勿論、違う。
この場合なら制度Aは公共の福祉に反しないなら成立するべきである。
5. 無知のヴェール的な考え方で話した無知のヴェールに近いものがある。
今あなたはマジョリティに属しているかもしれない。今回の例でいえば、私の様に「同性愛者の権利は自分には関係ない」かもしれない。でもその内自分がマイノリティに属する制度Bの話が生まれるかもしれない。
今当たり前に受け入れているマイノリティ故の不条理を覆すチャンスがあるかもしれない。
もしもこの制度Aが不成立に終わったら、それは単純にマイノリティAを認めなかったという話には終わらない。『今後のマイノリティB,C,Dも当然マイノリティなのだから我慢して当たり前』という土壌を作り上げたことになる。
最大多数の最大幸福を取るならば、目先の人数でマイノリティを潰すのではなく、『誰だって何かの際にはマイノリティになりうるのだから、マイノリティでも同じようにやっていける土壌を作っておけば今後も全ての人の幸福の担保になる』と考えなくてはならない。
今「同性婚なんて気持ち悪い!嫌だ!」と言っている人。それはその内「同性婚がダメとか気持ち悪い!」に変わった時、自分の人権さえ保障されなくても良いと言っているようなものだよ。

そんなわけだから、私はその問題に興味がないのなら、マジョリティに認められている権利は基本的にはマイノリティでも認められていくべきだと思っているわけ。

どちらかというとこの話は、適者生存の原理に基づく部分が大きい。今の世の中では変にしか見えないものも生かしておくべきなのだ。排除してはいけない。

それぞれ認めたくない部分、どうしても嫌な考え方っていうのはあるだろう。
嫌だと言っているのに無理やり近づこうとして来たりするならば容赦なく叩き潰せばいい(それは相手がマイノリティだからではなく『相手が嫌がることも無理にやっていい』などという価値観を認めては不幸が大量発生するからに他ならない)。そうでない限り、「嫌だし気持ち悪い、けど、まあ関わらないでいてくれるなら……」程度で抑えておけないものか。躍起になった人々に排除されようとしているマイノリティは、明日のわが身なのだから。

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