価値観

5. 無知のヴェール的な考え方

無知のヴェールという言葉をご存知だろうか。
この記事は読んでいる人がそれを知らない人だという前提で話を進めていく。

無知のヴェールとは、社会における正義を(正義、という言葉が気に入らなければルールでも良い)決めるとき、その決める立場の存在は無知のヴェールに覆われていなければならない、というような考え方のこと。
無知のヴェールに覆われているって何か、といえば簡単に言ってしまうと「自分が何者なのかが分からない状態」のこと。意味が分からんぞ、という人向けにもう少し噛み砕いていこう。

かつての某権力者が言った言葉に、「朕は国家なり」というものがある。適当に訳せば「俺がルールだ」ということだ。もしも自分が、そんなことが言えるくらいの大権力者になったらどうするだろうか。例えば、気に入らない法律は改定できる。例えば、気に入らないやつを死刑にできる。例えば、税金を爆発的に上げることが出来る。正に自分こそが世界のルール。
何故このような極端な状態を想定するかというと、「社会正義を決める立場」が一人に絞られている方がこの話が理解しやすいからだ。当ブログの過去の記事を読んできた方は私が極論を多用する人格の持ち主なのを既に理解しているかもしれない。分かりやすいのだ。即ち今回の例えにおいて、自分に比肩する存在は全くいない。誰であっても意見するなら無視も死刑にも出来るし、誰も文句を言えないような立場である。

まずは当然、自分に不都合なルールは作らないだろう。そして多くは自分にとって都合の良いものである筈だ。当たり前である。しかし、もしも権力者が本当にそんなことをしてしまったらそれは大変なことになる(だから、現代社会において国家は複数の権力構造に分かれているし、一つの権力の中でも意図的に派閥が作られるようになっている)。

さて、無知のヴェールとは、先程言ったように「自分が何者なのか分からない状態」のことだ。
では、無知のヴェールで先程の自分=ルールとなった人物を覆ってみよう。先程と同じように権力者に利益が集中するようなルールを作れるだろうか、というとこれは極めて難しいはずである。
何故なら、ルールを決める人物は「ルールを決める権利」だけは持っているものの自分が何者なのか分からないからだ。権力者、それも比肩するものがいない最高位の存在かも知れないが、毎日泥水を啜って生きながらえる程の困窮した生活を送る存在かもしれない。運動が得意かもしれないし、苦手かもしれない。勉強も。趣味も。性別も、体格も、性格も、それどころか家族も出身地も年齢であっても、自分のことを何も知らないのである。
この状態の人物がルールを決めるとしたら、「ある立場の人間が損をする」ルールを作るだろうか。あるいは、「ある考え方の人間が損をする」でも良い。
「所得100万以下の人間は最高権力者の奴隷」なんてルールを作ったとしたら。自分が権力者なら良いが、その100万以下の立場だったらと思ったらそんな事はできないはずだ。「働かなくても均一の年収」なんてことも、自分が毎日懸命に働いて平均を上回る収入を得ている人物である可能性を思えば勘弁願いたい。
となれば、特定の立場が損をするのではなく、可能な限り平等に――自分がどこの立場の人間でも良いように――決めるのではないか。

無知のヴェールに覆われた人物が社会正義を決めるべきだ、というのはそういう意味の主張である。アメリカの哲学者、ジョン・ロールズの言葉である。

ここまでで大体のことは言ったのだが、今回私が言いたいのは無知のヴェールとは何かという話ではない。
「無知のヴェール『的』な考え方を持っていない人が多すぎないか」という意味の話である。

世の中は「平等」が大好きだ。事あるごとに平等を謳うし、対比して格差という言葉を持ち出す。格差はそのまま貧困による問題にも繋がり、格差は悪というイメージを強め、その対義語のように扱われる平等は更に持ち上げられるというような状態。
まあ、それは結構。
平等であるべき、とは思わないがそれは個人の価値観の差である。平等を目指したい人は平等を目指して活動していけば良いだけのことだ。
ここで私が何故平等という単語にここまで言っているかというのは、平等を騙るだけの物が多すぎることにある。これらは一見して平等っぽく見えてしまう。というか、見えるようにしている。そういうのに騙され踊らされ、恥ずかしい言説を垂れ流すのに一役買っている人間がとても多いところにある。
例えば表現の自由を振りかざして人が不快に感じる可能性が高いものを隠さずに出す行為だ。SNSの発達によって、見る側は何の覚悟もできずそういったイラスト等を見せられることで被害を訴えている。これはよくBL界隈で見かける言説である。その際に用いられる主張でよく見るのが「男性向けの成人指定の絵は堂々と出すのに女性向けのものは駄目だというのか!」というもの。男性向けと女性向けの平等を謳って、自分の行為を正当化しているわけである。
が、勿論論点が著しくずれている。「不快になるのだから」という論点が出されているのだから、主張するべきは「ならば男性向けのものも見る人間に気を遣うべきだ」という話であって、「相手がやっている以上自分もやっていい」などという思考に逃げるのは愚の骨頂である。

先日も話に出したものだが、「多用な価値観を認めるべきだ」というのも一つの愚説であると感じている。多用な価値観など認める必要はないのだ。
価値観の相違に我慢できない人達という記事で、割と近しいことを書いている。先程この記事を見直したらこの記事でも無知のヴェールという単語を使っていた。同じことを書くというのも芸がないが、考え方が一貫していると思って大目に見て欲しい(また、極論を避けてマイルドな書き方を、と言っていて面白いとも思った。価値観の話をする最初の記事であったし、少しは気を遣うつもりがあったのだろうか)。

上の記事では「言っていることとやっていることが矛盾しているではないか」という視点で書いていたが、今回の視点は「世の中は君を中心に回っているわけではない」という見方である。
平等、平等、と言って自分にとって都合の良い言説を正義とするのが平等だというのなら、国家も世界も破綻する。押し付けるのはもっての外であるし、自身を顧みずに堂々と主張している様を恥ずかしいと認識するべきではないのか。

何かを主張したいと思うこともあるだろう。それが自分の信じるある種の信念に基づいていることだって少なからず存在する。漫画等の規制への反対、同性愛関連への意見、政治の問題もそうだし、個人間の人間関係もそうだ。「それはおかしい!」と叫ぶ前に、「こうあるべきだ!」と謳う前に、それが偏ってはいないか確認することは出来ないだろうか。
一度、無知のヴェールで自身を覆ってみれば良い。冷静に、可能な限り客観的に。
主張する、という行動はその殆どが主張するだけの意味がある場面で行われる。ということは、大体の場合自分の意見に対して反対する人間がいるはずだ。自分がその立場だったら、自分の主張をどのように見るだろうか。それくらい考えることは出来るだろう。
「論理的には全面的に納得せざるをえないけど個人的に嫌だから反対している」以外に考えられないなら、その時初めてその主張を行えば良い。「いや、こうすると確かに反対派としては被害を被ることになるのか」と考えられるなら、その折衷案を考える必要がある。
自分自身は、どちら側の人間なのか、自分で分かっていないとしたら? 反対派の存在かもしれない。それでもその意見を言われた時に自分が納得して受け入れるだろう、と思える程度まで煮詰めていない主張は、ただの身勝手と大差無い。
無知のヴェール『的』な考え方を、というのはこういう話である。主張を一目見るだけで「いや、それじゃ反対派は困るじゃないか」と言われてしまうようなぱっと見平等染みている身勝手を目にするのは、あまり好ましいとは思えないのだけれど、どうだろう。ただの思考の一手間で、大きく変わるものだと思っているのだけど。

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