価値観

2. 行動の責任は誰にあるの問題(個人編)

行動の責任、というのは要するに「こうなったのは誰のせいだ!」という話のこと。大して長くもない人生の中で、不思議に思うことが多かったのでまとめておこうと思っていたテーマの一つだ。

個人編、というのはこれが組織に属する者の組織活動の一貫での行動の責任ではなく、あくまで個人による個人の活動、行動への責任についての話をするという意味である。

例外はあれど、行動の責任はその行動の主語となる人物が負うことになる。これが私の本項における主張となる。

極めて当たり前の話を例にするのなら、私が人を殺したら、その時罪に問われるのは私になる、ということである。「殺す」という動詞の主語は「私」である。ここまでは疑いようもない。だが、世の中は流石にそこまで単純ではない。多くの場合において、人は行動をする前に逡巡する。色々なものを秤にかけて、望んだり諦めたりといったプロセスを経て行動が現れる(稀に、行動がまっさきに現れる人間もいるが)。

例が少々物騒だが、極論の方が認識しやすいのでこのままいこう。

 

私は人を殺したが、それは「殺さないと自分が殺されるから」だったとしよう。どうあがいても逃げられなくて、確実に殺される。体内にスイッチ式の爆弾を埋め込まれた、とかそんな感じで良いだろう。ドラマのようだ。

爆弾を用意して私を脅した黒幕Aは、勿論犯罪者であり善悪の区別を付けるならそれは悪だろう。これも間違いない。脅迫も殺人教唆もこの日本の中では犯罪行為である。他の国でも大体そうだろう。よくは知らない。

で、問題は実際に殺した私。殺された被害者の遺族からすれば私はただの殺人者であり、親族を殺した憎い相手である。社会的に見ても殺人は犯罪である。ただ、客観的に見れば同情の余地はあるだろう。このような場合誰に責任があるのか。

黒幕Aか。勿論それは正しい。(私見になるが、殺人教唆と脅迫では罪が軽すぎるだろう。後は殺人未遂がつくのだろうか?)

だが、それと同時に私は殺人者としての責めを甘んじて受けなければならない、というのが本項の主張である。ぐだぐだと「私は仕方なくやったんだ、私も被害者だ」というような愚説を並べ立てる権利はない、という旨の主張である。この場合に緊急避難が適用されるのかは分からないが。

 

勿論この例は極論の至であり、実際にこのような例があった時に私が同じ主張をするのか、と言われると自信を持って首を縦に振るかは怪しいところであるが、この縮小とも言える事例は多くないか。

「あいつがやれって言ったから」はまだ可愛げがある。悪いことを認識しながら行動したことを理解している分、まともといえる。

「お前があの時こんなものを勧めなければ」とか言い始めるとこれはまずい。完全に責任を外に押し付けている。

 

例えばよく聞くのが「専門学校に通いたいけど親が反対する」であるとか、逆に「親が大学は行けっていうから受験する」であるとかそういう例か。勿論受験ばかりではなく、「あいつの言ったとおりにしただけ」「みんなが反対するからやめた」というのはそこら中に転がっている事例でもある。言うとおりに「した」のは自分だし、反対されて「やめた」のも自分である。そのような人が周りにいるなら、是非アドバイス等行わないことを推奨する。

言いたいことはすごくシンプルで、「言われた結果、悩むなりして、そうすることを選んだのは自分でしょう?」ということ。何を言われたにせよ、最終的に行動を取ったのは自分だ。体を誰かに操られたわけではない。自由意志によって、その行動を選んだのは自分だ。嫌々であれ、何であれ。

 

となれば、今度は当然だが、行動の前には様々な考察がなされるべきだ、という話に落ち着いていく。

 

これをしたらこうなるかもしれない。

こうすることでこうなってしまうかもしれない。

あらゆる行動には当然結果が存在することになるので、その結果をまとめて受け止められないのなら、行動などするべきではない。部屋で引きこもって自分だけのことを考えていれば良い。勿論それも行動であり、その結果自分の人生が堕落し行き詰ったとしてその責任は微塵も他者になすりつけることは出来ないが。

リスクマネジメントという言葉が適切かは分からないが、自分の行動がもたらすプラスとマイナスについて、吟味することを忘れるべきではない。

更に極端な言い方になるが、「こんなことになるなんて思わなかったんだ」ということが稀にある。この場合は大体「だから自分には責任はない」或いは「そんなに私が悪いばかり言わないでくれ」というような弁明の意が込められていると推察できるが、これもまた論外である。そのような自体を想像できなかったのはその想像力の稚拙さが問題なのであって、そうなってしまった事実は何も変わらない。(だからこそ、しつこいくらいに行動の結果については思考を張り巡らせるべきである。)

私は起業をしたが、その話をした際によく言われたのが「失敗するかもしれないんだよ?」であるとか「そう簡単じゃないでしょ」といった言葉であった。知っているよ、知っている。その程度のことは当然考えているよ、と何度思ったか分からない(が、これも当然話した際に来る感想としては十分に予想できるものであったし、私が「話す」という行動を選んだ結果受けることになった私自身の不快感であるのだから責任は私にあるし、それに対して不満を述べたことはない)。

起業をするからには失敗するかもしれないし成功するかもしれないし借金まみれになるかもしれないし良い事が一つもないかもしれないし、というのも考えたうえで行動しているのだ。「やめたほうが良いよ」と言われてもやめる気はないし、そもそも助言が欲しくて言ったのでははない。聞かれたから答えただけだ。自分の行動に責任をもつというのはそういうことだとも思っているし、押し付ける気はないが最低限自分自身はその価値観に基づいて動きたいものである。

最後についでだが、押し付ける気はないと書いたがそれは余所での話に限る。私自身に誰かが行動の責任を振りかけようとするのなら躊躇なく上記の主張の下一切の責任を追わないことを主張する。自分の責任は必ず背負うが、他人の責任は絶対に背負わない。

責任のなすりつけ、などという言葉が聞かれるのは個人ではなく組織の方だろうか。近々組織の行動の場合も書くが、自分の責任の範囲はしっかりと認識しておきたいものである。中学生くらいの子供が「自分のせいではない!」と叫ぶのはまだ可愛げがあるが、いい大人がそれをやるのを恥ずかしいと認識もしていないのは、恥ずかしいという認識はないのだろうか、と思ってしまうのである。

どういうふうに思っていても自由だが、世の中ちょっと「良いことは自分のおかげ、悪いことは誰かのせい」な人、多すぎないかと思うのである。

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