価値観

1. 価値観の相違に我慢できない人たち

エッセィと称して良いのか、そのような内容のものにはナンバリングをしていこうと思った。由来は森博嗣氏のつぶやきのクリームや100の講義から。私はああいう類の本はとても好き。

価値観の相違に我慢できない人たち、というのは私が日頃思うことの多い単語、もとい連語である。人は価値観が異なる。私見が過ぎる言い方をすれば、人間とは価値観だ、とさえ思っている、価値観は経験によって作られ、その違いがいわゆる「個性」というものに当たるのではないか。

経験によって価値観が構成されるのであれば、当然人によって価値観が違うことになる。多くの人はそれは理解しているはずだ。

しかし、その理解が「みんなそう言ってる」レベルのものなのか、根拠あってのものなのかはばらばらだ。

 

別に理解度の話がしたいわけではない。

では何か、と言うと近頃ニュースでそれが如実に現れる例がよく取り上げられる。少し古いが、当時も思ったことを今になって書いていこう、というわけだ。

例に挙げるなら渋谷区の同性婚を半ば認めるパートナーシップ条例や、夫婦別姓問題。何故か、こういういわゆる「権利問題」に属する問題はTwitterで広がりやすい印象がある。そういう人をフォローしているのだと言ってしまえばそれまでだけど。

極端な論理を振りかざす人が多い問題なので、少しはマイルドに話がしたいができるだろうか。

まず世の中には「多様な価値観を認めていこうよ」というある意味で脅迫じみた絶対正義のような『価値観』がある。私自身も、大勢が多様な価値観を認めていくようになったら争いごとは減少するだろう、という意味において賛成する。

ところが、そうではない人もいる。いや、きっと彼らも「多様な価値観が認められる社会とそうではない社会とどちらが良いですか?」と尋ねれば多くが前者を選ぶのだろうとは思うのだが。それでいながら「同性愛反対」と叫ぶ人は確かに存在する。要するに、「この問題は別」ということなのだろうか。(尤も、それは問題自体が定義されていない事による無知のヴェール的な要素によるものだろう。彼らが反対を叫ぶのは、その問題において自分は認められなくても困らない立場にいるのが分かっているからだ。)

同性愛が認められたら皆がそれによって変容をきたすわけではない。今まで抑圧されてきた人たちだけが、その抑圧から開放されるのではないのか。夫婦別姓とて強制ではない。同姓にしたいという人はすれば良いししたくない人はしなければ良い、というもののはずだ(不勉強である)。

そうしてみてみれば、反対している人たちの意見というのは(私からすれば)何が言いたいのかよく分からないものになってくる。それぞれ尤もらしいことは言うが(出生率の低下や、夫婦の絆がなんだ、と)それにデータが伴っている例を少なくとも私は見たことがないし、そもそもこの問題に限って言えば日本の少子高齢化の加速具合は同性婚や別姓を法的に認めている国よりも大きいものなのではないのか、などと思ってしまう。

言ってしまえば、尤もらしい言い訳を盾にして「気に入らない(気持ち悪い、不愉快、etc)からそういうのは嫌だ」という言葉を正当化しているに過ぎないのではありませんか、ということだ。正当なデータがあって言っているのなら申し訳ない。もう少し取り合う価値のあるものになるのかもしれない。

つまりはこういう人たちを見ると、「自分と価値観が大きく異なるものが社会に容認されることがそんなに嫌なのか」と思う。価値観の相違に我慢できない人たちの一つの典型を見た気になるのだ。

 

ここまでの文章から察されている通り、私自身はこれらの問題に対して反対を唱えることはない。無責任なことを言えばこれらの問題自体の当事者ではないので大して興味も持っていない。ただ、そういう幅広さが容認される社会のほうが好ましく思う、という話である。同性婚が認められても、夫婦別姓が認められても、私は生活に何も支障はきたさないし、きっとプラスもないだろう。であればいつか自分がそういったマイノリティの側にたった時、同じように生きやすくされる社会の基盤があったほうが良いのではないか。多様な価値観を認めていて欲しいという願望の裏にはそういう打算がある。

残念ながら話はこれで終わりではない。それだけなら良かったのだけど。

これらの賛成派の人間の一部の行動が、非常に良くないものに見える。思ったことは無いだろうか。無いとしたら、余程運がよくそういった行動を目にしなかったか、かなり鈍感であるかのどちらかだと思ったほうが良い。

「価値観を認めるべき」という行動がやたらTwitterで見られる、と書いた。人権団体に関わりのない私がそれでもそのようになるのは、私がオタクだからであろう。いわゆる、マンガやアニメが好きで、……という部分ではなく、「あまり人との交流を積極的にしてこなかった人たち」という意味だ。最近は変わっていっているだろうし、今後そのような意識は消えていくだろうと思っているが、まだマンガやアニメが好きなオタクは生徒、学生であった頃に馬鹿にされたり、いじめの標的にされたり、といったあまり好ましくない思い出のある人の割合が(日本人からランダムに抽出した時より)多いのではないだろうか。つまらない話をするならば私にもあった。おかげで価値観の相違が我慢できない人たち、というのは数多く見る羽目になった。

話を戻そう。そういった経験がある人は、「(例えば一人でいたい、という)価値観が認められず虐げられる」ことに対して、他の人よりは敏感だ。私のように「直接関係ないからこれ自体には興味が無い」とはいかず、我が事のように現状に憤り、動いている人さえもいるのではないか。(でなければ、特に性的マイノリティについての多くの意見があまり外側の意見を見に行かない私の目に頻繁に届くとは考えづらい。)

「価値観を認めろ!」は結構なことである。それで不自由している人たちがいる以上(そして解決に他者への直接的な影響が見られない以上)、それは可能な限り解決されて然るべきだ。しかし、反対している人がいるのは事実である。それを何故か見ようとしない。

「頭固すぎ」「そういうの認められないとか人として最低」「ただの身勝手」……etc。実際にこれらの問題に対する賛成派のマンガ・アニメ系のオタクと分類できるであろう人物が反対派に対して発していた文字である。私が見た範囲に限る。分からないではない。けど、と思うわけだ。

彼らは彼らで、そいつらの価値観をまともに見る気もないじゃないか。

価値観を認めろという割に、価値観を排除しようとしているのは賛成派も同じである。相手を頭固すぎ感情的すぎと小馬鹿にしながら同じ土俵に立っているではないか。そうでなくとも、この問題はすくなくともどちらかは折れる事になる問題なのだ。それなのにどうして相手の人格攻撃までしてしまうのか。

一見すると価値観を認めるべきと言っている人権擁護派の振りをしているが、彼らもまた価値観の相違が我慢できない人たちではないか、と。

 

そもそも、一番基本の段階に話を持ってきてしまえば、多様な価値観など認める必要はない。認められていた方が良いだけの話だ。多様な価値観を認めていくべきなのは社会であり組織であり、それはつまり集団である。人間一人ひとりがそんなことをする必要はない。嫌なら嫌で良いし、好きなら好きで良い。しかし、世の中のほとんどの人はその上で我慢して生きている(組織という単位に属しているのだから、それは当然のことである。)

それでも例えば仕事で嫌いな人と同じ仕事をすることになったとして「こいつ嫌いだからやらない」などといえば「馬鹿者」と言われるだろう。そもそもそんなことを言ってどうにかしようとしているのは恥ずかしいと思って然るべきではないか。

尤もそうなことをいって正しい顔をするのも、正しさを盾に相手の人格を否定するのも、結局のところ自分の気に入らないものを排除しようとしているだけだと気づいて欲しいし、それは恥ずかしいことだと思って欲しい。

賛成派がいなくなろうが反対派がいなくなろうが、それでもマイノリティも、願望も存在する。それらの存在は賛成反対の数に依存しない。今まで社会で生きてきたように、嫌いなものに対してはできるだけ近づかないで生活をすればそれで良いではないか。わざわざ近づいてお互いに突き合うような行為は、必要ないと思うのだがいかがか。

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